皮膚の歳時記

世田谷区の皮膚形成外科、千歳台きたのクリニックです。季節の変化と皮膚の健康の関係は切っても切り離せません。季節ごとの皮膚のお話をちょっとずつお伝えします。
受験が終わり・・・
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    次女の大学受験が終わった。1月から3月後半まで、非常に長い受験だった。

                                                

    娘の受験成績は2勝1敗。最大の「武器」として使えるはずだった数学には、センターで笑い、本試で泣いた。本試で落ちたのは数学の不振が原因だった。最後の2か月、過去問は安定して解けていたのに・・・

    母「あんなに自信あった数学なのに、どうして最後の最後でだめだったんだろうねえ」

    娘「たぶん、自分じゃ意識していなかったけど、緊張してたんだよ。緊張すると地が出るんだとおもう・・・」。

    何はともあれ、後期で合格した大学へ進学することとなり、一件落着。

     

    大学受験の間、娘は人が変わったように「丈夫に」なった。

    彼女はいつも朝が弱く起きられない。年がら年中花粉症(?)で鼻をグズグズいわせている。若いのに、しょっちゅう頭痛だの、腰痛だのを訴えていた。それが、受験最後の半年間、これらの症状がピタッと止まったのだ。朝は必ず6時に起き、きりっとした表情で朝勉強。元気に学校へ向かい、塾で夜10時過ぎまで勉強。11時半就寝。判を押したような生活を週に7日間繰り返した。なぜか花粉症の症状は現れず、頭痛腰痛もなくなり、インフルエンザもノロも近寄らなかった。受験が終わった途端、激しい花粉症に見舞われたのは、季節のせいか気がぬけたせいか。

    鬼門の数学では、最後に何か「光」のようなものが見えた。夏に文転してからスタートした日本史世界史では、スポンジが水を吸うように知識を吸収していった。「毎日楽しくてしょうがない。こんな楽しい受験生でいいのかなあ」などと言っていたのは、まんざら自分を鼓舞するためだけではなかった。学び、理解することがこんなに面白いことだと知り、今までの自分を突き抜けるような体験をした半年だった。

     

     具体的な目標がなくなると「地」に戻るのか。単に緊張が解けただけなのか、受験期の颯爽たる姿はどこへやら、こたつでダラダラと寝ている娘を見てると、あの緊張が懐かしくなる母でした。

    | kitanohifukei | 子育て・教育 | 22:35 | - | - | - | -
    大学受験について考える・・・3
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      今日は高校の卒業式のため、半日お休みをいただいた。娘たちをここまで見守ってくださった方々には言葉で言い表せないほどの恩を受けた。教育に情熱をかけ、子供たちがしっかり成長してゆくことを祈念してくださった多くの先生方には心からお礼申し上げたい。

      学校での営みは「うまくいって当たり前」と思われがちである。本当は、日常の営みを平穏に過ごさせるためには、並大抵でない努力と忍耐の積み重ねがあったはずだ。

      私がこれから書くエピソードは、「変わった出来事」である。だから書きやすかった。自分への反省を込めてだが、「書かれること、書きやすいこと」は、森を見ているのではなく、一つの小枝の観察記録に過ぎないことが多い。

      平穏な日常は、なかなか書くネタにはなりにくいため具体的に書きづらいが、これこそ何事にも代えがたいものであり、本日この日を無事に迎えられたことを感謝している。

       

      高校数学の醍醐味は、「ワクワク感」を味わうことに尽きる。そのためには、非暗記型の数学を会得させるのが正攻法だ。しかし、非暗記型の数学を最終目的として教育することは、ものすごく難しいことだと思う。書店に並ぶほとんどの参考書は、「この問題にはこの公式を適用しよう」「この公式は重要だからゼッタイ覚えよう」というノリで書かれている。これらの本の通り素直にやってゆくと、必然的に暗記型になる。(そもそも非暗記型はそのような参考書を買わない)。私自身の数学は非暗記型だったが、同じ教師に学んだ旧友の何人かは、暗記型数学をしていた。結局、暗記型か非暗記型かは、教え方には関係なく、教わる時点で生徒が持っている性向が決定するのかもしれない。ましてや15歳まで暗記型でやってきた子を方向転換させることは至難の業である。

       

      ところが、筋金入りの暗記型数学少女であった次女が、最終的に、非暗記型数学を楽しむことができるようになった。

       

      松尾光徳先生との出会いは、3歳年の離れた長女の高1時代にさかのぼる。(ご本人に許可をいただいたので、実名で書かせていただいた。)

      びっくり仰天の出会いであった。

      松尾先生は溝の口にある塾の経営者兼塾長である。その年の春は塾の生徒さんが驚異的に少なく、倒産の危機に直面していたとのこと。そこで先生は、「部屋の中で待っていてはいけない、外へ出て生徒を引っ張ってこなければ」と、娘の学校の近くで「路上講義」をはじめられた。ホワイトボードを持って道路を通る生徒たちに問題を吹っ掛ける。「これができたら消しゴムあげるよ」。

      当時、長女は化学が全く分からなくて困っていた。何がどう困っているのか、さっぱりわからないが、とにかく困っていた。私には娘に十分教える力がない。そのとき、松尾先生の路上パフォーマンスにみごとに「ひっかかった」のだ。「勉強教えてあげるよ」といわれて、のこのこついて行ったらしい。その晩、娘がなかなか帰ってこない。心配していると電話があり、友人と二人で体験授業を受けているとのこと。10時ごろだったか、ようやく帰ってきた「体験授業、ものすごく楽しくてよくわかったよ。私たちしかいなかったから、ずっと授業してくれた」その日だけで5時間以上、無料の講義を受けたらしい。長女はその週、タダの体験授業に入り浸った。私はそんな怪しい塾に入り浸り、勧誘を受けていることにハラハラしていたが、「大丈夫、これ体験授業だから」と娘は意に介しない。授業がわからなくて暗い目をしていた娘が「開眼」し、目がキラキラ輝いていた。彼女の化学への理解は爆発的に伸び、成績は向上した。

      念のために、一般的に心配されるような怪しいことは全くなく、ただ、松尾先生が標準的な教育方針とは少し違った教育視点と生き方をしているだけだということをお断りしておく。

       

      それから3年を経て、数学で悩んだ次女が松尾先生の門をたたいた。そこで出会ったのが、きっぱりとした先生の方針。

      「暗記型数学はダメ。非暗記型にすること」。

      私と違うのは、私が「暗記型でも仕方がないかも」と、現実と妥協してしまうのに対し、松尾先生は「ダメなものはダメ」と徹底していること、さらに、暗記型を非暗記型に変えてゆくための、ご自分の方法を持っていらっしゃること。これは考えれば大変なことで、3年も5年も前に戻って数学への考え方を変えてゆかねばならない。私は、自分が娘の数学に望むと同じ方向を示してくださった先生に(実際は本当にそんなことが可能かどうか疑心暗鬼ではあったが)、娘の勉強をゆだねることにした。

       暗記型数学から非暗記型に転向するとき、しばらくの間、考査の点数は下がる。これは診療で言えば、それまでで病状をマスクしていた「対症療法」をやめたため、一時的に真の病状があらわになるのと似ている。もともと良くなかった得点がさらに低迷した。

       低迷から抜け出すのには時間がかかった。高校3年の夏までに「改造」が追い付かなかったのが、理系から文系へ転向する一つの理由となった。

       ところが、高校3年の秋、突然花が咲いた。娘が顔を輝かせて「数学がわかってきた」と言う。こうなればフィーバーが起こったのも同然で、やる問題やる問題、ジャラジャラと面白いように解けてゆく。連勝を重ねるようになり、一気に数学が楽しくなった。

      | kitanohifukei | 子育て・教育 | 23:05 | - | - | - | -
      大学受験について考える・・・その2
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         あたかも前回の私のブログに呼応してくださったかのように(!僭越ながら)310日に内田樹さんのブログでこのように書かれていたので、引用させていただく。

         

        『私が30年の教師生活の経験から言えることは、教育において、教師からの「働きかけ」と学ぶものが示す「成果」(もっと散文的に「入力」と「出力」と言ってもいい)の相関は「よくわからない」ということである。ある学生にとって「学びのトリガー」となったような働きかけが別の学生には何の感動も与えないということがある。こうすれば必ず学びが起動し、学生たちの知的ブレークスルーが始まる、というような「一般的な」教育技術というものは存在しない。残念ながら。

        人間は実に多様なきっかけによって心を開き、心を閉じ、学び始め、学ぶ気力を失い、成長を開始し、退行する。私たち教師が言えるのは、「経験的に比較的効果的な方法が存在する」ということだけである。その方法さえ教師ごとにみな違う。だから、教師たちが集合的に「正しい教え方」について合意形成するということは決して起こらない』

        同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる』

         

         つまり、ベストの教え方、などを求めるのは初めから間違っているということだろう。

         

         次女は我が家で初めての「文系」人間である。私は人を理系だの文系だのと2分類し、レッテルを貼ることに基本的に抵抗感を感じるのだが、どうも娘たちの姿を見ていると、人間には文系的傾向と理系的傾向があるのではないかと感じる。一番違いが出やすいのが数学だと思う。

         やばい、と思ったのは、小学校高学年の時。私が「虫食い算って面白いよ」というと、「どこが面白いの?わけわかんなくて大嫌い」という返事。たぶん、このころ、いやもっと前から、数字に興味がない性質ができていたのだろう。それでも、まずまずの成績を取っていたので、いずれ何とかなるさと、高をくくっていた。

        中学校3年ごろだった。高得点の定期考査とは対照的に、模試の数学で惨憺たる成績が続いた。どうして模試だとダメなのか、不思議に思って聞いたら「だって、前にやったところは覚えていられないんだもん」と言う。ここでようやく気付いた。彼女は「暗記型数学」をやっていたのだと。公式、問題、解答パターン、全部暗記してテストに臨むと言う。母はびっくりしてあっけにとられてしまった。テスト範囲が決まっている定期考査は万全だが、記憶はすぐ消えるので、模試は全滅ということらしい。
         その時から口を酸っぱくして「公式は覚えるな、その都度導くこと」「問題を覚えちゃいけない」と言ったが、「暗記したくてしてるんじゃないんだよ。やってると、自然に暗記しちゃうんだ。」との返事。暗記が大の苦手の母にはまったく理解できない娘。そして、成績はずるずると下がっていった。私にはこの事態を修正する手段がわからなかった。のみならず、「これは私と違う能力かもしれないので、いたずらにいじるべきではない」と思うこともあった。そうこうするうちに、定期考査のほうにも手が回らなくなり、ずるずると成績が下がっていった。

         

        内田樹先生の理論からすると、娘は、娘の個人的要因により、誰の数学授業を受けても理系数学をする運命ではなかったということになる。おそらく、もともと理系的傾向のある子は、同じ「暗記型数学」の授業を受けても、そこに法則を見つけ出して「少ない知識から導いてゆく数学」のパターンに落とし込んでしまうのだろう。文系の子は、無理に修正せず、得意な暗記力から攻める「暗記型数学」が正解、という考え方もある。

         私の勝手な考えだが、「
        数学と遊んで、楽しみたい、ワクワクしたい」、という発想では、暗記型にはならないのではないか。次女は、もともと「数学を楽しみたい」という意識が希薄である。親は、あんなに面白い数学を楽しむことができないことを、ものすごくもったいないと思っていた。

        当時の娘は、苦しそうだった。やってもやっても、時間とともに、暗記したはずの公式がずり落ちてゆく。むなしい戦いだった。

        | kitanohifukei | 子育て・教育 | 15:08 | - | - | - | -
        大学受験について考える・・・その1
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          受験勉強、あるいは高校の教育課程は特殊な世界である。ほとんどの人にとって、微積分が将来の仕事に役立つことはない。現在、理科・社会は「選択課目」である。必須項目ではないので、日本史を知らないあるいは地学を知らない大学生も当然存在することになる。大学に入ると受験勉強で蓄えた膨大な知識の大半は無用となる。にもかかわらず、一大イベントたる大学受験のための勉強には、毎年膨大なエネルギーが注ぎ込まれる。
           今年は次女の受験だったので、親の私も、多少熱し、受験について久しぶりに考えた。しばらくたてば忘れてしまい、他人事となってしまうだろう。「受験」について考えるのは人生でこれが最後だとと思うので、盛り上がりの気持ちが失せないうちに記録しておこうと、ブログに書くこととした。

           

          子供を持つ・育てるということは、もう一度自分の人生を生きるのと似たようなものである。子供が、かつて自分のたどってきたのと同じなやみ、喜び、苦しみ、課題に立ち向かうとき、自分の経験がどのように役立つのかを試す場ともいえる。私は子育て時代の初めにおいて、自分の悩み解決法が子供にも通用するだろう、自分は子供の導き方に対してちゃんとした「解答」を持っている、と思っていた。しかし、現実はなかなか思い通りにゆかなかった。

          現代の高校で教える内容は私たちの時代とほとんど変わっていない。大学受験に絞っても、近代史や生物の一部を除くと、30年前に私たちがやっていた内容とほぼ同じであり、数十年にもわたって同じような問題プールから選ばれた問題が繰り返し出題されている。とくに、数学や物理は数百年前から繰り返されている問題ばかりである。ということは、「教える」という行為も数十年数百年にわたって同じことを繰り返している。そろそろ「これが決定版!!」というものができあがっていてもよいはずである。にもかかわらず、現実は必ずしもそうなっていないことに最近気づいた。

          | kitanohifukei | 子育て・教育 | 00:28 | - | - | - | -
          A先生の時代
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             50歳を迎えると、いままで思い出しもしなかった昔のことが次々と思い出されてきます。
             
             以前ご紹介させていただいた小学校担任だったA先生との間には、いろいろな確執がありました。
             私が通っていた小学校は、富山平野が山へと立ち上ろうとする、その裾野付近にあり、のどかな田園風景が広がっていました。当時の級友には頭のいい子、勉強のできる子、運動が得意な子、字がきれいな子など、才能があふれた子はたくさんいたのですが、土地柄なのか時代のせいなのか、上の学校に行こうとか才能を伸ばそうという「欲」は全く感じられない雰囲気がありました。

             私もそんな感じで、小学校時代は、高校とか高専に行ければいいなあ、との気持ちはありましたが自分の将来に「大学進学」という文字は一つもありませんでした。
            他の子もそんな感じで、むしろ女の子は学校を卒業したら適当に働いて早く嫁に行け、という考えが普通だった時代と地域でした。

             私の両親は娘に何か自活できるだけの職を身に着けてほしいと言っていました。ただ、それが何なのか、ものすごく漠然としていまして、
             和裁の先生がいいんじゃないか、体育の先生は?看護婦は?学校か幼稚園の先生は?医者になれればそりゃいいけどね、ずいぶん現実味のない話だね、宇宙飛行士?そりゃ無理だよ。幸恵は字の才能はないからお習字の先生は無理みたいだし・・・

             そういうまったり空気の流れを変えたのはA先生でした。
             私たちとA先生が激しく対立する中で、「お前たちみたいなやつらは、はどうせ付属(富山大学付属中学校)の試験を受けても通らんやろ」と啖呵を切られたので、よし、こっちも受けて立ったろうじゃないか、と燃えて、勉強を始めました。
             結果は合格、「そーら見たことか」、と見返した「ツモリ」になりましたが、我ながら恥ずかしいほど幼かったと思います。
             
             このブログは小学校の級友も読んでくれていて、昨年O君からA先生を囲む会での先生の「レジメ」を送ってもらいました。いつ読んでも感動なので、とりあえずその一部をご紹介させていただきます。

            「君たちと出会ってから40有余年。深い絆とともに作り上げた思い出は忘れられない。新米教師であった私は、育てることの『厳しさと愛』を標榜し、教育への情熱に燃えていた。・・・」
             どのような仕事であれ、「情熱に燃えていた」と、真面目に語れる人は数少ないのではないでしょうか。まさしく私たちもその情熱の嵐に巻き込まれ、熱い幼年時代を送りました。いまはぬくもりのように温かく思い出されるひと時です。

             人の人生って、時代と出会いでとんでもない方向に変わるものだと思います。永続的に、継続的に、いつまでも、将来は・・・なんて考えてると、貧相になりそうなので、今この時を一生懸命生き、かかわってくださる皆様を精一杯大切にして頑張ってゆきたいと思います。
            | kitanohifukei | 子育て・教育 | 09:22 | - | - | - | -
            受験の旅は出会いの旅
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              本日は国立大学試験前夜。
              次女は都内の受験なので、家でのんびりしています。
              私は30ウン年前の自分の受験を思い出して、娘に思い出話をしました。

              富山の田舎から東京への受験の旅は、私にとって、初めての一人旅でした。
              東京大学を受験するために東京へ、さらに、私立医大で唯一国立並み授業料の産業医科大学を受験するために新幹線を乗り継ぎました。
              トータルではかなりの長距離旅行です。
              倹約第一の実家では、普段列車に乗るときは、鈍行、良くても急行でした。
              初めて乗る富山東京直通の特急白山。これは受験生へのフンパツ、だったのです。

              受験2日前、一人旅のワクワク冒険気分で富山を離れました。
              受験生の中には同じように浮かれ気分の人も結構いて、妙にお友達ができた旅でした。

              まず、行きの白山(さながら受験列車)。隣に座ったのは同じ県内の高校の受験生。
              6時間の旅の間、それぞれの勉強をするどころか、なぜかこの初対面の男の子と話が弾んでしまい、その後も何度か会うことに。

              東京での宿は、参宮橋にある、もと東京オリンピック選手村(受験生のために開放)。1泊2食800円ぐらいで泊まれました。
              今でも参宮橋で小田急線を降り、線路沿いにトコトコ歩いて受験生村に入っていったのを覚えています。
              部屋は当然4人だか8人だかの2段ベッドが並ぶ大部屋。
              若者同士は受験という環境でも仲良くなっちゃうのですね。
              レトルトをゆでたようなハンバーグをつつきながら、どこから来たの、どこを受けるの、東京はどういうところだなどの話で弾み、受験が終わった後もワイワイ騒いでました。

              国立の受験が終わると翌日は移動日。東京駅から東海道、山陽新幹線を乗り継ぎ、小倉へ。
              旧国鉄の時代で、ひっきりなしに車内販売がとおっていました。
              これは、かなり長時間の旅で、すごく疲れました。
              小倉へ着いたのはすでに日が暮れてから。

              産業医大は100人募集のところ3000人が受験し、ほとんどの受験生は民宿に泊まりました。
              私の泊まった小さな民宿も満員御礼。
              ここでも、全国各地から集った若者たちは、こたつを囲んで楽しく語らいあう受験前日をすごし、
              一緒に受験場に向かい、受験が終わるとみんなで太宰府天満宮にお参りにいって、それぞれの地方に帰りました。

              明日は寒くなりそうです。
              外では寒くても室内は暑いかもしれませんので、
              調節できる準備をして出かけましょう。

              | kitanohifukei | 子育て・教育 | 20:27 | - | - | - | -
              6年B組の皆さんへ
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                 こんにちは、37年前の富山市立太田小学校6年B組のみんなの中で、このブログを読んでくださる方がいるなら、この場を借りて、ご報告しますね。

                今日午後、担任のA先生がクリニックを訪れてくださいました。
                息子さんが世田谷区にお住まいの関係で、週末まで東京に滞在されるそうです。
                富山のますずしとかまぼこをを持ってきてくださいました。
                一年前の、私の先生宅急襲と負けず劣らずの急襲で、例のごとく熱く語られ、強く励ましてくださり、嵐のように去ってゆかれました。
                全然、お変りになりませんね。元気すぎます。2年前に定年退職されたのが信じられない気がします。
                お互い久しぶりだったので、語ることが多すぎることはわかっていましたが、後日またゆっくりと言うことで。富山で先生と飲まれるときには、ちょいと語り草にでもしてください。

                今から思うに、
                この熱いA先生に小学校高学年の2年間受け持っていただいたことで、何か変わらないほうがおかしかったでしょう。
                それまで自由気ままに甘ったれて生きていた私にとって、初めての壁のような先生でした。
                なにせ、「子供はのびのびと、自由と創造力を大切にに」との教育の風潮に真っ向から逆らうように、先生の教育方針は、生徒たちの否定から始まりました(のように見えました)。
                「お前たちの腐った根性を叩きなおしてやる」なんてセリフ、いまどきの担任教師は、たぶん言いませんよね。
                一見、権力濫用、ガチガチの軍隊式教育のように見えますが、生徒たちは悔しい気持ちを抱えながらも、びっくりするほど先生についてゆき、慕ってゆきました。
                「甘えた根性が悪い」のが真実を衝いていることが、子供心にも納得できたことと、先生が徹底的に生徒と付き合って下さったからでしょう。

                こまっしゃくれていた私はどちらかと言うと先生と対立することが多く、憎い気持ちのほうを多く持っていました。にもかかわらず、家庭訪問の日は何となくうれしく、先生が来て下さるのが待ち遠しくて、屋根の上に登って「まだこないかなあ」と見張って待っていました。

                卒業後も、みんななにかと、先生に会いにゆきました。
                K君が愛知県へ行くの時の送別会、寒々とした3月の写真、あれもこれも断片的な記憶ですが・・・
                当たり前のように甘えさせてくださったおかげで、助かった日々もあったのだと思います。
                次の同窓会も、声をかけてくださいね。さすがに、次回は入院ということはないでしょう。
                | kitanohifukei | 子育て・教育 | 22:16 | - | - | - | -
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